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群雄・その他

潼関の戦い

潼關之戰

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交戦勢力

西涼連合軍

背景

曹操が漢中の張魯を討つという名目で関中を通ろうとすると、馬超・韓遂ら西涼の軍閥は自分たちに向けられた刃と受け取りました。記録上十万の連合軍が潼関に集結し、曹操の西進を阻みます。馬超にとっては、父・馬騰が朝廷に人質としている状況での挙兵でした。

経過

西涼騎兵の突撃は荒々しく、渭水を渡っていた曹操は馬超の奇襲に命が危うい瞬間まで追い込まれました — 許褚が片手で鞍を掲げて矢を防ぎ、船を漕いでかろうじて渡り切ります。「髭を切り、戦袍を脱ぎ捨てて逃げた」という話が残るほどでした。正面突破は難しいと見た曹操は賈詡の離間の計を容れ、韓遂と旧交を温めるふりをして談笑し、文字を塗り消した手紙を送って馬超の疑心を煽ります。連合軍の結束が崩れた瞬間、曹操は総攻撃でこれを蹴散らしました。

結果と影響

関中が平定されて曹操の西方の脅威が消え、翌年、馬騰一族は処刑されます。敗走した馬超は再起を狙った末、結局劉備に帰順して蜀の五虎大将となります。武力の馬超が知略の賈詡に崩された、離間の計の教科書のような戦役です。

正史と演義の違い正史vs演義(小説)

演義の「許褚が裸になって馬超と格闘(裸衣戦馬超)」は創作ですが、髭を切った逸話や許褚の渡河の奮戦、離間の計の骨格は正史・注釈に根があります。馬超挙兵と馬騰処刑の前後関係も、演義が覆した部分です。