交戦勢力
背景
皇帝に即位した劉備は、関羽の復讐と荊州回復を掲げて東征を宣言しました。趙雲が「国賊は曹氏であって孫権ではない」と諫め、秦宓が引き留めましたが、翻意させられませんでした。孫権は和睦を請うて拒まれると、魏に臣を称して背後を安定させ、四十にもならない陸遜に全軍を委ねました。
経過
記録上数万の蜀軍は長江南岸に沿って進撃し、緒戦の勢いを上げましたが、陸遜は険地を譲りながら夷陵まで数百里を退いて半年間持ちこたえました。猛暑に疲れた劉備が水軍を陸に上げ、林の中に七百里の連営を敷くと、陸遜は「今こそ」と火攻めを命じます。兵士一人につき茅一束 — 四十余りの陣営が同時に燃え上がり、蜀軍は組織的な抵抗もできないまま崩れました。劉備は夜を徹して白帝城へ逃れ、馬良をはじめ多くの人材が帰りませんでした。
結果と影響
蜀の国力と人材層は一世代分挫かれ、劉備は翌年、白帝城で世を去ります。逆説的にこの惨敗の後、諸葛亮が呉との同盟を直ちに復元し、三国の国境は以後40年近く大枠で固定されます。官渡・赤壁と並んで「三国志三大戦役」に数えられます。
正史と演義の違い正史vs演義(小説)
演義の八陣図 — 諸葛亮があらかじめ敷いておいた石積みの陣が追撃する陸遜を閉じ込めるという結末は創作です。正史の陸遜は魏の介入の可能性を読み、自ら追撃を止めた冷徹な判断家でした。「七百里の連営」の知らせに曹丕が敗北を予言したという記録は正史にあります。